コーヒーが冷める前に、課長は嘘をつく
月曜の朝九時三分。
営業三課の空気は、淹れたてのコーヒーよりも重たかった。
「で? 例の件、どうなった?」
課長の田嶋が、いかにも“仕事してます”という顔で聞いてきた瞬間、部内の視線が一斉に僕に集まった。
例の件――つまり、先週「余裕です」と言ってしまった新規案件の進捗だ。
「えーっと……順調、です」
僕は嘘をついた。
正確に言えば、“順調という言葉の定義次第では嘘ではない”という、社会人特有のやつだ。
「ほう、珍しいな」
田嶋課長は眉を上げ、僕のマグカップを見た。
そこには、誰が書いたのか「誠実」と書かれたシールが貼ってある。
「誠実が聞いて呆れる」
その瞬間、向かいの席から彩香が吹き出した。
「課長、それ私が貼ったんです。風水的に仕事運が上がるって」
「剥がせ」
「嫌です」
この部署は、こういう部署だ。
実のところ、案件はまったく順調ではない。
クライアントは返事をくれず、資料は未完成、僕の心は金曜の夜に置き去りにされたままだ。
「まあいい。昼までに一度、進捗まとめて持ってこい」
課長はそう言って、自分のデスクに戻った。
――終わった。
僕が机に突っ伏すと、隣から小声が飛んできた。
「ねえ、正直に言わないの?」
佐伯先輩だ。会社で一番仕事ができて、一番余計なことを言わない人。
「言ったら、もっと終わります」
「それもそうか」
納得しないでほしい。
その時だった。
「課長ー! 大変です!」
総務の新人が、青い顔で飛び込んできた。
「さっきの新規案件の会社から電話があって……今日の午後、急遽プレゼンしてほしいって……」
僕の心臓が、コーヒーミルみたいな音を立てた。
課長はゆっくり僕の方を向いた。
「……順調なんだよな?」
「……正直に言います」
「実は、まだ準備できてません」
ただし――
今日の午前中、全力でやれば、形にはなる。
課長はしばらく黙り、冷めかけたコーヒーを一口飲んだ。
「昔の俺みたいだな」
「よし、全員手伝え。どうせ暇だろ」
「暇じゃないです!」
「うるさい、暇にするんだ」
部署は一気に動き出した。
そして午後三時。
奇跡的に、プレゼンは成功した。
「……面白いですね」
その一言で、全員が救われた。
帰り際、メールが一通届く。
件名:次回のご相談について
内容:ぜひ、長期的なお付き合いを前提にお話しできればと思います。
――明日、課長に言わなきゃいけない。
「また一つ、案件増えました」って。
しかも今回は、本当の話だ。
でもきっと、課長はまたこう聞く。
「で? 順調なんだよな?」
さて、次はどう答えようか。


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