3月30日、最後の夜
3月30日、午後11時42分。
部屋の灯りは、デスクスタンドひとつだけ。
その淡い光の中で、高梨陽介は白い封筒を見つめていた。
中に入っているのは、退職届。
まだ、提出していない。
昼間、森本課長から改めて言われた。
「明日までに返事をくれ」
来期の体制は、もう決まる。
陽介の返答待ちで止まっているらしい。
責任。期待。信頼。
その言葉は重く、同時に温かい。
だからこそ、苦しい。
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テーブルの上には、もう一つの現実がある。
転職先から届いたメール。
「正式に内定をお出しします。4月入社も可能です」
想定年収は、やはり今より高い。
裁量も大きい。
だが、“保証”はどこにもない。
キッチンから妻の声がする。
「まだ起きてるの?」
「ああ……ちょっとだけ」
彼女は隣に座り、封筒を見て小さく笑った。
「どっちにしても、あなたが決めたなら応援するよ」
簡単に言う。
だがその言葉の裏に、生活への不安がないはずはない。
住宅ローン。
将来の子ども。
親の介護。
守るものは、年々増えている。
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「怖い?」
彼女が聞く。
少し考えて、陽介は頷いた。
「失敗が、じゃない。後悔するのが怖い」
残っても後悔するかもしれない。
辞めても後悔するかもしれない。
どちらを選んでも、未来は不確定だ。
妻は静かに言った。
「7年後のあなたが、今のあなたに何て言うかじゃない?」
7年後。
入社してから、ちょうど7年が経った。
あの頃の自分は、挑戦を恐れていなかった。
いつからだろう。
安定を言い訳にして、動かなくなったのは。
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時計は0時を回る。
3月31日。
決断の日だ。
パソコンを開く。
会社のメール画面。
件名欄にカーソルが点滅する。
「来期体制について」
本文を打ちかけて、止まる。
削除して、また打つ。
何度も書き直すうちに、指先が冷えていく。
視線を横に向けると、退職届の封筒がある。
白い紙は、ただそこにあるだけなのに、圧倒的な存在感を放っている。
出せば、戻れない。
出さなければ、何も変わらない。
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スマホが震える。
転職エージェントからのメッセージだった。
「ご不安があれば、最後にもう一度お話ししましょうか?」
まるで、背中を押すかのようなタイミング。
陽介は短く返信する。
「ありがとうございます。大丈夫です」
もう、話は十分聞いた。
あとは、自分で決めるだけだ。
妻が寝室へ戻る前に、ひと言だけ言った。
「あなたが誇れるほうを選んで」
誇れるほう。
その言葉が、胸の奥に深く沈む。
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陽介はゆっくりと椅子に座り直した。
呼吸を整える。
そして――
キーボードに、決意の指を置いた。
明日の朝、すべてが動き出す。
(最終話へ続く)
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