3月25日、揺れる通知
3月25日、午後6時12分。
蛍光灯の白い光に照らされたオフィスで、高梨陽介(32)はパソコンの画面を見つめたまま、キーボードの上に指を置いていた。
「高梨、あとで少しいいか」
背後から声をかけてきたのは課長の森本だ。柔らかい口調だが、目は笑っていない。
「……はい」
その一言だけで、胸の奥がざわついた。
同期の斎藤が退職したのは、先週の金曜日だった。
「市場価値、知ってみたら意外と悪くなかったよ」
送別会でそう笑った斎藤の顔が、やけに鮮明に浮かぶ。
市場価値。
その言葉が、陽介の頭の中で何度も反響していた。
自分はどうなのだろうか。
この会社で7年。営業成績は悪くない。だが評価はいつも「堅実」の一言で片付けられる。
堅実。
言い換えれば、代わりがきく。
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スマートフォンが震えた。
ポケットから取り出すと、画面には見慣れない通知が表示されている。
「あなたに興味を持った企業があります」
転職スカウトサービスからの通知だった。
心臓が、ひとつ大きく跳ねる。
偶然だろうか。
それとも、何かの合図だろうか。
通知をタップしかけて、指が止まる。
もし開いたら、戻れなくなる気がした。
会議室に呼ばれたのは、その10分後だった。
森本課長は書類を閉じ、まっすぐに陽介を見る。
「来期の体制の話だ」
一瞬、期待がよぎる。
だが続いた言葉は、曖昧だった。
「責任あるポジションを任せたいと思っている」
昇進、とまでは言わない。
だが仕事は増える。おそらく給料はほとんど変わらない。
それがこの会社の“評価”だ。
「考えておいてくれ」
会議室を出たとき、胸の奥に重たい塊が残った。
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帰り道、夜風が冷たい。
コンビニのガラスに映る自分の顔は、思っていたより疲れて見えた。
7年前、入社式の日。
スーツ姿で未来に胸を膨らませていた自分は、どこへ行ったのだろう。
スマホを取り出す。
あの通知は、まだ消えていなかった。
「あなたの経験を高く評価しています」
本当だろうか。
それとも誰にでも送っている言葉だろうか。
陽介は深く息を吸い、そして、初めてそのリンクを開いた。
そこには「無料キャリア診断」の文字が並んでいる。
質問は簡単なものばかりだった。
- 現在の年収
- 経験年数
- 希望職種
“3分で完了”と書いてある。
たった3分で、何がわかるのだろう。
だが――
「知るだけなら、失うものはないか」
誰に言うでもなく呟き、陽介は入力を始めた。
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送信ボタンを押す直前、手が止まる。
もし想像以上の結果が出たら?
もし、今より低い評価だったら?
どちらにしても、今の自分には衝撃になる。
それでも。
3月31日まで、あと6日。
来期の体制は、もうすぐ決まる。
決断の猶予は、思っているより短い。
陽介は目を閉じ、そして――
送信を押した。
(第2話へ続く)
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