長編小説:春の雨、父の背中【AI】

小説・創作

長編小説:春の雨、父の背中【AI】

第一章:始まりの夜

救急車のサイレンが夜の静寂を切り裂いた。

「もう少しです!頑張って!」

看護師の声が響く分娩室で、俊介は妻の美咲の手を握りしめていた。三十三歳の春、彼は初めて父親になろうとしていた。

「痛い……俊介……」

「大丈夫、俺がついてる」

そう言いながらも、俊介の手は震えていた。広告代理店で働く彼は、プレゼンの前でも動じない自信家だった。しかし今、目の前で苦しむ妻を前に、自分の無力さを痛感していた。

午前二時三十七分。産声が響いた。

「おめでとうございます。元気な男の子ですよ」

医師が差し出した小さな命。俊介は初めて我が子を見た瞬間、涙が止まらなくなった。

「陽太……陽太って呼ぼう」

疲れ切った美咲が微笑んだ。二人で決めていた名前だった。太陽のように明るく、強く生きてほしい。そんな願いを込めて。

しかし、その時の俊介は知らなかった。父親になることが、どれほど大変な道のりなのかを。

第二章:眠れない日々

退院して一週間。俊介の世界は一変していた。

「うわああああん!」

午前三時、陽太の泣き声で目が覚める。授乳を終えたばかりなのに、また泣いている。

「どうして泣いてるんだ……」

美咲は産後の疲労で、ほとんど動けない状態だった。俊介は仕事の疲れを押して、抱っこひもで陽太を抱きながら部屋を歩き回った。

「静かにしてくれ……頼むから……」

しかし陽太は泣き続ける。俊介はスマホで「赤ちゃん 泣き止まない」と検索した。おなかが空いている、おむつが濡れている、暑い、寒い、抱っこしてほしい……理由は無数にあるらしい。

「全部試したんだけどな……」

結局、朝五時まで陽太を抱っこし続け、そのまま会社へ向かった。電車の中で何度も居眠りをして、乗り過ごしそうになった。

会社では重要なプレゼンが控えていた。

「田中さん、大丈夫ですか?顔色悪いですよ」

後輩の麻衣が心配そうに声をかけてくれた。

「ああ、大丈夫。ちょっと寝不足で」

しかしプレゼン中、俊介は何度も言葉に詰まった。準備していた資料の順番を間違え、クライアントから厳しい質問を受けた。

「田中さん、今日は調子が悪いようですね。また改めて提案させていただきます」

部長の山田がフォローしてくれたが、俊介は自分の不甲斐なさに打ちのめされた。

帰宅すると、美咲が涙を流していた。

「ごめんね……私、ちゃんと育てられるかわからない……」

「何言ってるんだ。美咲は十分頑張ってるよ」

俊介は妻を抱きしめた。しかし内心では、自分も同じ不安を抱えていた。

第三章:孤独な戦い

生後二ヶ月。美咲は産後うつの診断を受けた。

「できるだけサポートしてあげてください」

医師の言葉に、俊介は頷いた。しかし現実は厳しかった。

仕事は待ってくれない。山田部長は理解を示してくれたが、同僚の中には冷ややかな目を向ける者もいた。

「子育ては女の仕事でしょ」

先輩の佐藤がそう言った時、俊介は怒りを抑えるのに必死だった。

家に帰れば、美咲はベッドで動けずにいる。陽太のミルク、おむつ替え、沐浴、寝かしつけ。すべて俊介一人でこなさなければならなかった。

「もう限界だ……」

ある日の深夜、陽太を抱きながら俊介は呟いた。睡眠時間は一日三時間程度。体重は五キロ落ちていた。

その時、ふと実家の母の顔が浮かんだ。

「母さんも、こうやって俺を育ててくれたんだな……」

俊介は電話をかけた。

「母さん、助けてくれないか」

「すぐに行くよ」

翌日、母の節子が新幹線で駆けつけてくれた。

「大変だったね。よく頑張ったね」

母の言葉に、俊介は初めて涙を見せた。

節子は家事を引き受け、美咲の話し相手になり、俊介に休息の時間を与えてくれた。

「子育ては一人じゃできないんだよ。助けを求めることは恥ずかしいことじゃない」

母の言葉が、俊介の心に染み込んだ。

第四章:小さな成長

生後六ヶ月。陽太は寝返りができるようになった。

「見て!陽太が動いた!」

美咲が久しぶりに笑顔を見せた。薬の効果もあり、少しずつ元気を取り戻していた。

「すごいな、陽太。もう寝返りができるのか」

俊介は我が子の成長に感動を覚えた。同時に、これまでの苦労が報われたような気がした。

会社でも状況は改善していた。育児休暇を取得した俊介を、思いがけない人が支援してくれた。

「田中、俺も昔、同じ経験したよ」

厳しいことで知られる営業部長の黒田が、声をかけてくれたのだ。

「今は大変だろうが、子どもはあっという間に成長する。後悔しないように、今を大切にしろ」

黒田には双子の娘がいた。妻が体調を崩した時、彼も同じように苦しんだという。

「ありがとうございます」

俊介は初めて、会社に味方がいることを実感した。

ある休日、俊介は陽太を抱いて公園を散歩していた。

「パパ、頑張ってるね」

ベンチで休んでいると、隣に座った老婦人が声をかけてくれた。

「いやあ、毎日必死で」

「それでいいのよ。完璧な親なんていないんだから」

老婦人は優しく微笑んだ。

「私も若い頃は、子育てに悩んでばかりいたわ。でもね、子どもはちゃんと育つものなの。愛情があれば」

その言葉に、俊介は救われた気がした。

第五章:初めての言葉

一歳の誕生日。

家族でささやかなパーティーを開いた。節子も招き、美咲の両親も駆けつけてくれた。

「陽太、一歳おめでとう」

ケーキの前で、陽太は不思議そうに周りを見回していた。

「ふーってしてごらん」

美咲が促すと、陽太は唾を飛ばしながらケーキに息を吹きかけた。

「はははは!」

みんなが笑った。この一年、本当に長かった。でも、笑顔で過ごせる時間が確実に増えていた。

その夜、寝かしつけをしていた俊介に、陽太が小さな声で言った。

「ぱぱ」

俊介は動きを止めた。

「今、なんて……?」

「ぱぱ」

陽太は確かに「パパ」と言った。初めての言葉だった。

「美咲!陽太が喋った!パパって言ったんだ!」

俊介は居間に駆け込んだ。美咲も驚いて寝室に来た。

「もう一回言ってくれる?」

しかし陽太は眠そうに目をこすっているだけだった。

「本当に言ったんだよ」

「信じてるよ。よかったね」

美咲が優しく微笑んだ。

その夜、俊介は久しぶりに深く眠った。

第六章:保育園という新たな戦場

一歳四ヶ月。美咲が職場復帰することになり、陽太は保育園に通い始めた。

初日の朝、陽太は激しく泣いた。

「ぱぱ、やだ!ぱぱ!」

必死に俊介にしがみつく陽太を、保育士が優しく引き離した。

「大丈夫ですよ。すぐに慣れますから」

しかし俊介の心は張り裂けそうだった。振り返りながら泣く陽太の姿が、頭から離れなかった。

会社でも仕事が手につかなかった。

「田中さん、また考え事ですか?」

麻衣が心配そうに声をかけてくれた。

「ああ、ごめん。息子が今日から保育園で」

「大変ですね。でも、きっと大丈夫ですよ」

午後五時、俊介は会社を飛び出すように出た。お迎えの時間だ。

保育園に着くと、陽太は他の子どもたちと遊んでいた。

「陽太ー!」

俊介の声を聞いて、陽太が振り返った。

「ぱぱ!」

満面の笑みで駆け寄ってくる陽太。その姿を見て、俊介は安堵した。

「楽しかった?」

「うん!」

陽太は保育園での出来事を、たどたどしい言葉で話してくれた。

しかし、この平和は長く続かなかった。

一週間後、保育園から電話がかかってきた。

「田中さん、陽太くんが熱を出しています。すぐにお迎えをお願いします」

「わかりました。すぐに行きます」

会議中だった俊介は、慌てて部長に頭を下げた。

「すみません、息子が熱で……」

「いいよ、行ってきなさい」

山田部長は快く送り出してくれたが、佐藤先輩の冷たい視線を感じた。

そこから、地獄のような二週間が始まった。熱が下がったと思ったら、また上がる。保育園は登園許可が出るまで預かってくれない。

美咲と交代で休みを取ったが、どちらも職場から冷たい目を向けられた。

「子どもが小さいうちは大変よね」

美咲の上司がそう言ったが、その言葉には棘があった。

ある夜、陽太が高熱で痙攣を起こした。

「陽太!陽太!」

救急車を呼び、病院に運ばれた。熱性痙攣という診断だった。

「よくあることです。でも、次回も起こる可能性があるので、注意してください」

医師の言葉に、俊介と美咲は青ざめた。

病室で、陽太は小さな体で点滴を受けていた。

「ごめんね、陽太。パパとママが弱いから、君にこんな思いをさせて」

俊介は陽太の手を握った。

「いや……」

陽太が弱々しく言った。

「パパ、ママ、だいすき」

その言葉に、俊介は涙が溢れた。

第七章:支え合う家族

二歳。陽太はイヤイヤ期に突入した。

「やだ!」「いや!」が口癖になり、何をするにも時間がかかった。

朝の準備は戦争だった。

「陽太、着替えるよ」

「やだ!」

「じゃあ、パジャマのまま保育園行く?」

「やだ!」

「じゃあどうするの!」

俊介は思わず声を荒げてしまった。陽太は泣き出した。

「ごめん、ごめんな。パパが悪かった」

抱きしめると、陽太は小さな手で俊介の背中をポンポンと叩いた。

「ぱぱ、ないた?」

「うん、ちょっとね」

「だいじょうぶ」

その優しさに、俊介は救われた。

会社では昇進の話があった。

「田中、君に新しいプロジェクトを任せたい」

山田部長からの提案だった。やりがいのある仕事だが、残業も増える。

「考えさせてください」

その夜、美咲と相談した。

「どうしたい?」

「正直、やりたい。でも、陽太との時間も大切だ」

「じゃあ、私が仕事を調整するよ。俊介のキャリアも大事だもん」

「でも……」

「大丈夫。二人で助け合えば、なんとかなるよ」

美咲は笑顔で言った。

俊介は新プロジェクトを引き受けた。忙しくなったが、美咲が家事と育児の多くをカバーしてくれた。

「ママ、頑張りすぎじゃない?」

「お互い様でしょ。俊介だって、私がダメだった時、支えてくれたじゃん」

二人は笑い合った。

ある日曜日、三人で動物園に行った。

「ぞうさん!」

陽太は興奮して走り回った。

「危ないよ、陽太」

俊介が追いかけると、陽太は振り返って笑った。

「ぱぱ、はやい?」

「全然速くないよ!」

俊介も笑いながら走った。

ベンチで休憩していると、美咲が言った。

「大変だけど、幸せだね」

「ああ、本当にそう思う」

陽太はアイスクリームを食べながら、両親を交互に見て笑っていた。

第八章:三歳の壁

三歳。陽太は幼稚園の面接を受けることになった。

「ちゃんとできるかな」

美咲が心配そうに言った。

「大丈夫だよ。陽太は頑張り屋だから」

しかし面接当日、陽太は緊張のあまり固まってしまった。

「お名前は?」

先生の質問に、陽太は何も答えられなかった。

「陽太……」

俊介が促したが、陽太は俊介の後ろに隠れてしまった。

結果は不合格だった。

「来年、また挑戦しましょう」

幼稚園の園長先生は優しく言ってくれたが、俊介は落ち込んだ。

「俺たちの育て方が間違ってたのかな」

「そんなことないよ。陽太はまだ三歳なんだから」

美咲は励ましてくれたが、俊介の不安は消えなかった。

その夜、陽太が寝た後、俊介は一人でベランダに出た。

「父親として、ちゃんとできてるのかな」

星空を見上げながら、俊介は自問した。

翌日、保育園の先生が声をかけてくれた。

「田中さん、陽太くんは本当に優しい子ですよ」

「えっ?」

「今日も、転んだお友達を助けてあげていました。『だいじょうぶ?』って」

その話を聞いて、俊介の目に涙が浮かんだ。

「ありがとうございます」

家に帰ると、陽太が言った。

「ぱぱ、きょう、ゆうちゃんがないてたから、てをつないであげたよ」

「そうか、優しいね」

俊介は陽太を抱きしめた。

「陽太、パパはね、君が世界で一番の息子だよ」

「ほんと?」

「本当だよ」

陽太は嬉しそうに笑った。

第九章:新しい命

四歳。美咲が妊娠した。

「二人目……嬉しいけど、大丈夫かな」

美咲は不安そうだった。陽太の時の大変さが蘇る。

「今度は俺がもっと頑張るから」

俊介は言ったが、内心では同じ不安を抱えていた。

陽太に妹か弟ができることを伝えた。

「あかちゃん?」

「そうだよ。陽太がお兄ちゃんになるんだよ」

「おにいちゃん……」

陽太は不思議そうに自分のお腹を触った。

つわりで苦しむ美咲を見て、陽太は言った。

「ママ、だいじょうぶ?」

「うん、ありがとう陽太」

陽太は美咲の背中をそっと撫でた。その姿に、俊介は成長を感じた。

妊娠八ヶ月のある日、美咲が切迫早産で入院することになった。

「陽太のこと、お願い」

「任せて。美咲は赤ちゃんのこと、頑張って」

俊介は再び、仕事と育児の両立に奮闘することになった。

朝は陽太を保育園に送り、会社で働き、夕方は迎えに行き、夕食を作り、お風呂に入れ、寝かしつける。そして病院に美咲を見舞いに行く。

「ぱぱ、つかれた?」

ある夜、陽太が聞いてきた。

「うん、ちょっとね」

「じゃあ、ようたが、せなかとんとんしてあげる」

陽太は俊介の背中を小さな手で叩いてくれた。

「ありがとう、陽太」

「ぱぱ、だいすき」

俊介は涙が出そうになった。

二ヶ月後、美咲は無事に女の子を出産した。名前は「陽菜」。陽太と字を合わせた。

「おにいちゃんだよ、陽太」

「ちいさい……」

陽太は不思議そうに妹を見つめた。

「陽太もこれくらい小さかったんだよ」

「ほんと?」

「本当だよ」

その日から、俊介の新しい戦いが始まった。

第十章:兄妹

陽菜が生まれて三ヶ月。家の中は再び戦場となった。

夜泣き、授乳、おむつ替え。すべてが陽太の時の記憶を呼び起こした。しかし今回は、陽太という存在があった。

「ぱぱ、ひなちゃん、ないてる」

真夜中、陽太が起きてきた。

「ごめんね、起こしちゃって」

「だいじょうぶ。ようた、てつだう」

陽太はおむつを持ってきてくれた。

「ありがとう。陽太は優しいお兄ちゃんだね」

「うん!」

陽太は誇らしげに笑った。

しかし、すべてが順調だったわけではない。

ある日、陽太が保育園で友達を叩いてしまった。

「どうして叩いたの?」

先生に呼ばれた俊介は、陽太に聞いた。

「だって、ひなちゃんばっかり……」

陽太は泣きながら言った。

「ぱぱも、ママも、ひなちゃんばっかり……」

その言葉に、俊介はハッとした。

「ごめんね、陽太。寂しかったね」

俊介は陽太を抱きしめた。

「ひなちゃんはまだ赤ちゃんだから、手がかかるんだよ。でもね、パパとママは陽太のことが大好きだよ。ずっと変わらない」

「ほんと?」

「本当だよ」

その日から、俊介は意識的に陽太との時間を作るようにした。

週末は陽太と二人で公園に行ったり、絵本を読んだり。

「ぱぱ、これよんで」

「いいよ。何度でも読んであげる」

陽太は満足そうに笑った。

数ヶ月後、陽太は自分から陽菜の面倒を見るようになった。

「ひなちゃん、おもちゃだよ」

「陽太、優しいね」

「だって、おにいちゃんだもん」

その姿を見て、俊介は胸が熱くなった。

第十一章:五歳の決意

陽太が五歳になった春、幼稚園の入園式があった。

「頑張ってくるね、ぱぱ」

「ああ、頑張れ」

三年前の面接の失敗を経て、陽太は別の幼稚園に入園することができた。

入園式で、陽太は堂々と自己紹介をした。

「ぼくは、たなかようたです。すきなたべものは、カレーです」

その姿に、俊介は目頭が熱くなった。

「成長したな……」

美咲も涙ぐんでいた。

幼稚園が始まると、陽太は驚くほど適応した。

「きょう、ともだちができたよ!」

「そうか、よかったね」

「あした、いっしょにあそぶんだ」

陽太の嬉しそうな顔を見て、俊介は安心した。

一方、陽菜は一歳になり、歩き始めた。

「ほら、陽菜。こっちおいで」

陽太が手を広げると、陽菜はよちよちと歩いていった。

「すごいね、陽菜!」

陽太が妹を抱きしめた。

「ようた、やさしい」

陽菜は兄の名前を呼んだ。

「ぱぱ、きいた?ひなちゃん、ようたっていった!」

「聞こえたよ。よかったね」

家族四人での生活は、確実に軌道に乗り始めていた。

しかしある日、俊介の母・節子が倒れた。

「母さんが脳梗塞で……」

実家から連絡があった。

「すぐに行かなきゃ」

「私も一緒に行くよ」

美咲が言ったが、陽菜がまだ小さい。

「俊介が行ってきて。私は子どもたちと家で待ってる」

「でも……」

「大丈夫。お母さんのそばにいてあげて」

俊介は実家に向かった。

病院で、節子は意識がもうろうとしていた。

「母さん、俊介だよ」

「俊介……」

節子は弱々しく息子の名を呼んだ。

「陽太と陽菜は?」

「元気だよ。二人とも、すごく成長してる」

「そう……よかった……」

節子は微笑んだ。

「母さん、ありがとう。母さんがいなかったら、俺は父親になれなかった」

「あなたは、立派な父親よ……」

その言葉を最後に、節子は眠るように息を引き取った。

葬儀の後、俊介は陽太を膝に乗せた。

「おばあちゃんね、天国に行ったんだよ」

「てんごく?」

「うん。でも、いつも陽太たちのこと、見守ってくれてるからね」

「また、あえる?」

「いつか、ずっと先にね」

陽太は空を見上げた。

「おばあちゃん、ありがとう」

その姿に、俊介は涙した。

第十二章:小学校への道

六歳。陽太は小学校入学を控えていた。

「ランドセル、似合ってるよ」

赤いランドセルを背負った陽太は、誇らしげだった。

「ぱぱ、しょうがっこう、たのしみ」

「そうか。頑張れよ」

入学式の日、桜が満開だった。

「たなかようたさん」

名前を呼ばれ、陽太は元気よく返事をした。

「はい!」

その声に、俊介は七年前の自分を思い出した。

あの夜、初めて陽太を抱いた時、こんな日が来るとは想像もできなかった。

眠れない夜、泣き続ける陽太、保育園の発熱、幼稚園の面接の失敗。

すべてが、今この瞬間につながっている。

「よく頑張ったな、陽太」

「ぱぱも、がんばった?」

「ああ、パパも頑張った」

「じゃあ、いっしょにがんばったね」

陽太は笑った。

その横で、美咲が陽菜を抱いていた。

「陽菜も、もうすぐ保育園だね」

「ああ、また大変になるな」

「でも、大丈夫だよ。私たち、強くなったもん」

美咲は笑った。

入学式が終わり、家族で写真を撮った。

「はい、チーズ!」

カメラのシャッターが切られた瞬間、陽太が言った。

「ぱぱ、ママ、だいすき!」

「俺たちも大好きだよ」

四人の笑顔が、桜の下で輝いていた。

第十三章:小学生の壁

小学校が始まって一ヶ月。陽太は毎日楽しそうに学校の話をしてくれた。

「きょうね、さんすうで、たしざんをならったよ!」

「そうか。じゃあ、問題出してみようか」

「うん!」

陽太は嬉しそうに算数の問題を出してくれた。

しかし、順調だったのは最初だけだった。

二学期に入ると、陽太は宿題をやらなくなった。

「陽太、宿題は?」

「あとで」

「あとでじゃなくて、今やろう」

「やだ!」

イヤイヤ期を思い出すような反抗だった。

「なんで宿題やりたくないの?」

「だって、むずかしいもん」

陽太は涙目になった。

「わからないところ、一緒にやろうか」

「……うん」

宿題を見ると、確かに少し難しい問題が混ざっていた。

「これはね、こうやって考えるんだよ」

俊介が教えると、陽太は理解した。

「わかった!」

「そうか、よかった」

しかし次の日も、その次の日も、陽太は一人で宿題をしようとしなかった。

「陽太、自分でやってみようよ」

「できない」

「やってみないとわからないよ」

「やだ!」

陽太は部屋に閉じこもってしまった。

「どうしよう……」

美咲と相談した。

「学校の先生に相談してみたら?」

「そうだな」

翌日、俊介は担任の松本先生に会いに行った。

「陽太くんは、授業中は積極的ですよ」

「そうなんですか?」

「ええ。でも、少し自信がないようですね」

松本先生は、陽太の様子を詳しく教えてくれた。

「できる問題でも、『わからない』と言ってしまうんです」

「それは……」

「完璧主義なのかもしれません。間違えることが怖いんでしょう」

その言葉に、俊介はハッとした。

「俺も、そうだったな……」

仕事で完璧を求めすぎて、失敗を恐れていた自分。それが陽太に伝わってしまったのかもしれない。

帰宅後、陽太と話をした。

「陽太、聞いてくれる?」

「なに?」

「パパはね、失敗することがあるんだよ」

「ぱぱも?」

「うん。仕事で間違えたり、怒られたり」

陽太は驚いた顔をした。

「でもね、失敗しても大丈夫なんだよ。失敗から学ぶことがたくさんあるから」

「ほんと?」

「本当だよ。だから陽太も、間違えても大丈夫。パパもママも、怒らないから」

陽太は少し考えてから言った。

「じゃあ、しゅくだい、やってみる」

「うん、頑張れ」

それから陽太は、少しずつ自分で宿題に取り組むようになった。

第十四章:二人目の試練

陽菜が二歳になった。

「やだ!やだ!」

陽菜もイヤイヤ期に突入した。しかし陽菜は陽太よりも激しかった。

「ご飯食べようね」

「やだ!」

「じゃあ、お風呂入ろう」

「やだ!」

「じゃあ何がしたいの!」

「やだ!」

美咲は疲れ切っていた。

「二人目の方が大変かも……」

「俺も同じこと思ってた」

俊介も正直に言った。

陽太の時は、初めての子育てで何もかもが新鮮だった。しかし陽菜の時は、陽太の学校のこと、仕事のこと、すべてが重なっていた。

「ママ、ひなちゃん、うるさい」

陽太が不満を漏らした。

「陽太もうるさかったよ」

「えー、ほんと?」

「本当だよ」

しかし陽菜の癇癪は日に日に激しくなった。

スーパーで床に寝転んで泣き叫ぶ。他の客の冷たい視線が刺さる。

「ほら、立って」

「やだ!」

「陽菜、お願いだから」

俊介は必死に宥めたが、陽菜は聞かなかった。

「しつけがなってない」

通りすがりの老婦人が呟いた。

その言葉に、俊介は怒りと悲しみがこみ上げた。

「すみません……」

陽菜を抱きかかえて、店を出た。

車の中で、俊介は深呼吸した。

「大丈夫、大丈夫……」

後部座席で、陽菜は泣き続けていた。

家に帰ると、美咲が玄関で待っていた。

「どうだった?」

「ダメだった……」

俊介は脱力して座り込んだ。

「俺、父親失格かもしれない」

「そんなことないよ」

美咲は俊介の隣に座った。

「陽菜は今、そういう時期なだけ。私たちが悪いわけじゃない」

「でも……」

「大丈夫。一緒に乗り越えよう」

美咲の言葉に、俊介は救われた。

その夜、陽菜が熱を出した。

「パパ……」

珍しく甘えてくる陽菜。

「どうした?」

「あたま、いたい」

「よしよし」

俊介は陽菜を抱きしめた。小さな体が熱かった。

「病院行こうか」

「うん……」

夜間診療に行くと、ただの風邪だった。

「今日は激しく泣いたから、疲れたんでしょう」

医師の言葉に、俊介は胸が痛んだ。

帰り道、車の中で陽菜が言った。

「パパ、ごめんね」

「えっ?」

「ひなちゃん、わるいこ?」

その言葉に、俊介は目頭が熱くなった。

「違うよ。陽菜は悪い子じゃない。パパもママも、陽菜のこと大好きだよ」

「ほんと?」

「本当だよ」

陽菜は安心したように眠った。

第十五章:家族の絆

陽太が三年生になった春、俊介は大きなプロジェクトを任された。

「これが成功すれば、次期部長候補だ」

山田部長から言われた。

「頑張ります」

しかしプロジェクトは困難を極めた。連日の残業、休日出勤。家族との時間が取れなくなった。

「パパ、またしごと?」

陽太が寂しそうに聞いた。

「ごめんな。もう少しだけ我慢して」

「わかった……」

陽太は下を向いた。

美咲も不満そうだった。

「俊介、子どもたちが寂しがってるよ」

「わかってる。でも今は大事な時期なんだ」

「いつもそう言ってる」

美咲の言葉が刺さった。

ある夜、会社から帰ると、陽太が熱を出していた。

「パパ……」

「陽太、大丈夫か?」

「うん……でも、さみしかった」

その言葉に、俊介は愕然とした。

「ごめん……」

「パパ、いつもいない」

陽太は涙を流した。

「陽太……」

俊介は陽太を抱きしめた。

「パパが悪かった。ずっと仕事ばかりで……」

その時、陽菜も部屋に入ってきた。

「パパ、ひなちゃんも、さみしい」

「陽菜……」

二人の子どもを抱きしめながら、俊介は決意した。

翌日、山田部長に相談した。

「部長、プロジェクトを降りさせてください」

「どうして?」

「家族との時間を大切にしたいんです」

山田部長は少し考えてから言った。

「田中、君は本当に変わったな」

「えっ?」

「昔の君は、仕事が全てだった。でも今は、家族を最優先にしてる」

「すみません……」

「謝ることじゃない。それでいいんだよ」

山田部長は微笑んだ。

「家族あっての仕事だ。プロジェクトは別の者に任せる」

「ありがとうございます」

その日から、俊介は定時で帰るようにした。

「パパ、早い!」

陽太が喜んだ。

「これからは、もっと一緒にいるからな」

「ほんと?」

「本当だよ」

その夜、家族四人で夕食を囲んだ。

「今日ね、学校でね……」

陽太が嬉しそうに話す。陽菜も負けじと話す。

「ひなちゃんもね、ほいくえんでね……」

その光景を見ながら、俊介は思った。

これが、本当の幸せなんだ。

第十六章:思春期の入り口

陽太が五年生になった。

「ただいま」

帰宅する陽太の声が、少し低くなった。

「おかえり。どうだった?」

「別に」

「宿題は?」

「あとで」

最近の陽太は、あまり話さなくなった。

「思春期かな……」

美咲が心配そうに言った。

「まだ十一歳だぞ」

「でも、最近変わったよね」

確かに、陽太は変わっていた。以前は何でも話してくれたのに、今は自分の部屋にこもることが多くなった。

ある日、陽太の部屋から物音が聞こえた。

「陽太、大丈夫か?」

ドアを開けると、陽太が泣いていた。

「どうした?」

「……いじめられてる」

「えっ?」

陽太は顔を上げずに言った。

「クラスの男子に、バカにされる」

「どんな風に?」

「勉強ができないって……」

陽太は震える声で話した。

俊介は怒りがこみ上げた。しかし、まずは陽太に寄り添うことが大切だと思った。

「そうか……辛かったな」

「うん……」

「でも陽太、君は頑張ってるよ。パパもママも知ってる」

「でも、みんなについていけない」

「それは大丈夫。人にはそれぞれペースがあるんだ」

俊介は陽太を抱きしめた。

翌日、俊介は学校に行き、担任の先生と話した。

「陽太くんの件、把握しております」

「どういう対応をされていますか?」

「加害生徒と話をして、指導しました」

しかし俊介は不安だった。それだけで解決するとは思えない。

家に帰ると、美咲と相談した。

「陽太に自信をつけさせてあげたい」

「どうやって?」

「陽太の得意なことを伸ばしてあげよう」

陽太は絵を描くのが好きだった。

「陽太、絵画教室に行ってみない?」

「え……いいの?」

「ああ、陽太の好きなことをやってほしい」

陽太は嬉しそうに頷いた。

絵画教室に通い始めてから、陽太に変化が見られた。

「今日ね、先生に褒められたんだ」

「そうか、よかったね」

「絵、楽しい」

陽太の笑顔が戻ってきた。

数ヶ月後、学校で絵画コンクールがあった。陽太の絵が入選した。

「すごいじゃないか!」

「えへへ」

陽太は照れくさそうに笑った。

クラスメイトも陽太を見る目が変わった。

「陽太、絵上手いんだな」

いじめていた子も、そう声をかけてきた。

「ありがとう」

陽太は堂々と答えた。

その姿を見て、俊介は安心した。

第十七章:中学生への階段

陽菜が小学校に入学し、陽太は中学校に進学した。

「行ってきます」

制服姿の陽太は、すっかり少年から青年へと変わっていた。

「気をつけてな」

「うん」

陽太は照れくさそうに手を振った。

中学校での生活は、小学校とは大きく異なった。

「部活、何に入ろうかな」

「好きなものに入ればいいよ」

陽太は美術部に入った。

「やっぱり絵が好きなんだな」

「うん。将来、絵に関わる仕事がしたい」

その言葉に、俊介は嬉しくなった。陽太が自分の道を見つけ始めている。

しかし中学生活は楽ではなかった。

「テスト、難しすぎる……」

中間テストの結果を見て、陽太は落ち込んだ。

「大丈夫。次頑張ればいい」

「でも……」

「陽太、君には絵がある。それが君の強みだ」

俊介の言葉に、陽太は少し元気を取り戻した。

一方、陽菜は小学校で人気者になっていた。

「今日ね、クラスで発表したんだよ!」

「そうか、偉いね」

陽菜は社交的で、友達がたくさんいた。陽太とは対照的だった。

「陽菜は明るいな」

「うん。でも時々、調子に乗りすぎるんだよね」

美咲が苦笑した。

ある日、陽菜が友達とケンカして帰ってきた。

「どうしたの?」

「あいちゃんが、意地悪言うから」

「何て言われたの?」

「あなたは目立ちたがり屋だって」

陽菜は涙ぐんだ。

「そうか……でもね、陽菜」

俊介は膝をついて、陽菜と目線を合わせた。

「明るいのは陽菜の良いところだよ。でも、時には相手の気持ちも考えないとね」

「わかった……」

陽菜は素直に頷いた。

翌日、陽菜は友達と仲直りして帰ってきた。

「ごめんねって言ったら、あいちゃんも謝ってくれた!」

「よかったね」

子育ては終わりがない。新しい課題が次々と現れる。しかし俊介は、もう恐れていなかった。

第十八章:十五年目の春

陽太が高校受験を迎えた。

「第一志望、どこにするか決めた?」

「うん。美術科のある高校に行きたい」

陽太の目は真剣だった。

「応援するよ」

受験勉強は大変だった。美術の実技試験もあり、陽太は毎日遅くまで絵を描いていた。

「陽太、無理しないでね」

「大丈夫。これ、好きでやってるから」

その姿を見て、俊介は感慨深かった。

十五年前、あの小さな赤ん坊が、今では自分の夢を追いかけている。

受験当日。

「行ってきます」

「頑張れ。でも、結果がどうであれ、陽太は陽太だからな」

「わかってる。ありがとう、パパ」

陽太は笑顔で家を出た。

数週間後、合格発表があった。

「受かった……受かったよ!」

陽太が興奮して帰ってきた。

「本当か!よかったな!」

家族みんなで喜んだ。

「お兄ちゃん、すごーい!」

陽菜も飛び跳ねて喜んだ。

「これも、パパとママのおかげだよ」

陽太が言った。

「いや、陽太が頑張ったからだよ」

「でも、パパたちが支えてくれたから」

その言葉に、俊介は目頭が熱くなった。

夜、美咲と二人でワインを飲んだ。

「陽太、大きくなったね」

「ああ、本当に」

「あの夜のこと、覚えてる?」

「どの夜?」

「陽太が生まれた夜」

「ああ……忘れるわけないだろ」

あの日から十五年。長いようで、あっという間だった。

「大変だったね」

「ああ。でも、後悔してない」

「私も」

二人は笑い合った。

最終章:父の背中

陽太が高校を卒業し、美大に進学した。

「東京で一人暮らしか……」

荷物をまとめながら、俊介は感慨深かった。

「心配しないで。ちゃんとやるから」

「わかってる。でも、父親だから心配なんだよ」

陽太は笑った。

「パパ、ありがとう。今まで育ててくれて」

「こちらこそ。陽太に父親にしてもらったよ」

「えっ?」

「陽太がいたから、俺は父親になれたんだ」

その言葉の意味を、陽太はゆっくりと噛みしめた。

東京に向かう新幹線のホームで。

「じゃあ、行ってくるね」

「ああ、元気でな」

陽太が電車に乗り込む。窓越しに手を振る陽太に、俊介も手を振り返した。

電車が動き出す。

陽太の姿が小さくなっていく。

俊介は、十八年前のあの夜を思い出した。

初めて抱いた我が子の温もり。眠れない日々。イヤイヤ期。保育園の発熱。幼稚園の面接。小学校の宿題。いじめ。思春期。受験。

すべてが、今この瞬間につながっている。

「よく頑張ったな、俊介」

隣にいた美咲が言った。

「美咲も、ありがとう」

二人は手を繋いだ。

家に帰ると、陽菜が待っていた。

「お兄ちゃん、行っちゃったね」

「ああ。でも、陽菜がいるから寂しくないよ」

「えへへ」

陽菜は中学生になり、バスケ部に入っていた。

「陽菜の試合、見に行くからな」

「ほんと?嬉しい!」

子育ては終わらない。陽菜がまだいる。そして、いつか孫ができるかもしれない。

でも俊介は、もう恐れていなかった。

父親になって十八年。多くを学んだ。

完璧な親なんていない。間違えることもある。失敗することもある。

でも、愛情があれば大丈夫。

そして、一人で抱え込まないこと。助けを求めること。

それが、父親として学んだ最大の教訓だった。

その夜、俊介は一人で陽太の部屋を訪れた。

空っぽの部屋。でも、壁には陽太の絵が飾ってあった。

家族四人の絵。

笑顔の父、母、兄、妹。

「ありがとう、陽太」

俊介は呟いた。

「君が俺を、父親にしてくれた」

窓の外では、春の雨が降り始めていた。

優しい雨。

新しい季節の始まりを告げる雨。

俊介は、また明日から頑張ろうと思った。

陽菜のために。美咲のために。

そして、自分のために。

父親としての旅は、まだ続く。

でも、もう大丈夫。

俊介は、父親の背中を、子どもたちに見せることができるようになっていた。

― 完 ―


コメント

タイトルとURLをコピーしました