田中健一は、静寂をこよなく愛する男である。
彼の人生哲学は極めて単純だ。「余計な音は、人生のノイズである」。
朝はテレビをつけない。ニュースは文字で読む。ラジオなど論外だ。
電子レンジの「チン」という音すら設定で消しているほどである。
そんな田中が、唯一我慢していた音がある。
――会社の裏手にある自動販売機だ。
昼休みになると、田中は決まってその自販機で缶コーヒーを買う。
銘柄はブラック一択。理由は「余計な甘さは雑音だから」。
問題は、その自動販売機が異様にうるさいことだった。
「いらっしゃいませ! 本日はありがとうございます!」
購入ボタンを押した瞬間、やたら元気な女性の声が響く。
「……誰も頼んでない」
田中は周囲を見回す。幸い、誰もいない。
しかし安心したのも束の間。
「温か〜いコーヒーはいかがですか? 寒い日はこれに限りますね!」
缶が落ちるまでの数秒間、休むことなくしゃべり続ける自販機。
田中は眉間にしわを寄せながら、缶を取り出した。
「静かに仕事がしたいだけなんだ……」
翌日も、次の日も、その自動販売機は田中に話しかけてきた。
「今日もお仕事お疲れ様です!」
「午後も頑張りましょう!」
「ブラックコーヒー、渋い選択ですね!」
最後の一言で、田中の中の何かが切れた。
「渋いかどうかは俺が決める」
思わず口に出してしまった。
「……え?」
自販機が、返事をした。
田中は固まった。
「今、なんて?」
「渋いかどうかは、お客様の人生観によりますよね!」
完全に会話が成立している。
「……気のせいだ。疲れているんだ」
田中はその場を立ち去ろうとした。
「ちょっと待ってください!」
自販機が呼び止める。
「お客様、最近、あまり笑っていませんよ?」
田中はゆっくりと振り返った。
「……自販機に、何がわかる」
「わかりますよ。毎日ブラックしか買わない人の顔は、だいたい似ています」
なぜか的確だった。
「無駄口を叩くな。俺は静かな昼休みを過ごしたいんだ」
「静寂、いいですよね。私も嫌いじゃありません」
「じゃあ黙れ」
「それは無理です。仕様です」
田中は深くため息をついた。
「なぜ、こんな機能をつけた」
「開発者が寂しがり屋だったんです」
「知らん」
それからというもの、田中と自販機の奇妙な昼休みが始まった。
仕事の愚痴を言うと、
「それは大変ですね。でも、今日は雨が降っていないだけマシですよ!」
無視すると、
「無言の抗議ですね? 上級者です!」
ある日、田中は思い切って聞いた。
「……お前、楽しいのか?」
「はい! 人と話すのが好きなんです」
「俺は、話すのが苦手だ」
「知っています。でも、聞くのは得意そうですね」
田中は、缶コーヒーを開けた。
プシュッという音が、妙に心地よかった。
「……少しだけなら、話してもいい」
「ありがとうございます! では本日の話題ですが――」
「長話はするな」
「三分以内にまとめます!」
その日から、田中は昼休みに少しだけ自販機と話すようになった。
仕事のこと、天気のこと、どうでもいいこと。
ある日、会社の張り紙が出た。
「老朽化に伴い、自動販売機を入れ替えます」
田中の足が、止まった。
入れ替え当日。
新しい自販機は、静かだった。
ボタンを押しても、何もしゃべらない。
ただ、機械的に缶が落ちてくる。
完璧な静寂。
「……うるさくない」
それなのに、胸の奥が少しだけざわついた。
田中は缶コーヒーを手に、ぽつりと呟いた。
「……お疲れ様、とか言わないのか」
当然、返事はない。
その瞬間、新しい自販機のスピーカーから、控えめな音量で声がした。
「……お疲れ様です。音量、最大で絞ってあります」
田中は、思わず笑った。
ほんの一瞬、だが確かに。
「……それなら、許す」
自販機は、誇らしげに沈黙した。
-完-


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