序章 ― 小さな手、少し大きい手
娘・美桜(みお)が五歳になった春、妻が眠るように亡くなった。
医師から説明を受けていたはずなのに、死亡確認の瞬間、俺は何を言われているのか理解できなかった。
ただ、美桜が病室の隅で泣きながら「ママ、起きて」と小さく揺さぶっている姿だけが、胸に深く刺さった。
その日から俺は父であり、母でもある日々を歩き始めた。
不器用で、失敗ばかりで、でも美桜が小さな手で俺の指を握って「パパがいい」と言った。
あの言葉だけで、俺は今日まで生きてこられたのかもしれない。
第一章 幼稚園の戦いと”謎の三つ編み事件”
父子家庭の朝は戦場だ。
保育園バッグの中身を整え、髪を結び、忘れ物を確認し、仕事に向かう。
ただし、女児の髪を結ぶという行為は、父親にとって高度な魔法のようなものだ。
「パパ、今日は三つ編みがいいの!」
「出たな禁断の魔法……」
三つ編みは当時の俺にとって“ラスボス”だった。
説明動画を見ても、髪は指から逃げるし、美桜は動くし、時間はないしで毎朝が修羅場。
ある日、頑張った結果、奇跡的に左右のバランスの取れた三つ編みが完成した。
俺はガッツポーズを決め、美桜も満面の笑顔。
しかし、保育園に到着した瞬間、先生が丁寧に言った。
「……お父さん、これ三つ編みというより“縄文時代の遺跡から出てきた縄”みたいですね」
笑うしかなかった。
でも、美桜は胸を張って言った。
「パパが頑張った髪なの!ママがいないから、パパがママの分もやるの!」
先生が一瞬涙ぐみ、俺は思わず俯いた。
子どもは時に、恐ろしいほどまっすぐだ。
第二章 小学校 ― お弁当と初めての反抗期
小学校入学。
美桜は活発で、友達も多く、明るい子に成長していた。
しかし、弁当のクオリティだけはどうにもならない。
卵焼きは焼けば黒焦げになり、唐揚げは油で破裂、彩りは茶色の支配。
ある日、美桜がぽつりと言った。
「パパのお弁当、友達に“山の男のご飯”って言われちゃった」
「お、おぅ……それは……ワイルドということで……」
「でもね、私、好きだよ。茶色ばっかりでも。パパの味だから」
何気ない言葉が、どれほど救いになるか。
その日から俺は料理本を買い漁り、少しずつ“茶色の支配”から抜け出し始めた。
しかし小学校高学年になった頃、初めて美桜が俺に反抗した。
「もうパパに送ってほしくない!学校の前まで来ないで!」
胸に穴が開いたようだった。
だが、俺は笑って言った。
「成長したなぁ……でも玄関の影から見守るくらいは許してね」
「ストーカーじゃん……」
ツッコミができるくらい反抗期は健全なんだろう。
その夜、美桜は布団にもぐり、顔だけ出して小さく言った。
「……でも、パパがいなくなるのだけは嫌だから。玄関の影くらいはいいよ」
俺はそっと頷いた。
成長と不安はいつもセットだ。
第三章 中学生 ― 初恋と失われた母の影
中学生になった美桜は背が伸び、表情も大人びてきた。
部活のこと、テストのこと、友達のこと――
話す内容は増えたようで、どこか壁も生まれた。
ある日、美桜が食卓でぽつりと言った。
「パパ……私、好きな人できた」
箸が震えた。
肉じゃがが飛び散った。
「だ、誰だ!? どこの誰だ!? 名前は!? 年収は!?」
「中学生だよ!!年収とかないよ!!」
でも嬉しかった。
“ママがいないから恋愛はどうなるだろう”と何度も心配していたのだ。
しかし、初恋は痛みを伴った。
夏の夜、美桜が泣きながら帰ってきた。
「好きな人に告白したけど、ごめんって言われた……」
俺は黙ってタオルを渡した。
「なんで私じゃダメだったのかな……ママがいたら、相談できたのかな……」
その言葉に胸が締め付けられた。
「美桜、お前はちゃんと素敵な子だよ。ママがいなくても関係ない。
ママの分まで俺が全力で育てたんだから、保証する」
「……パパのそういうところ、ずるいよ……泣いちゃうじゃん……」
笑いながら泣く美桜を抱きしめると、
あの日、病室で震えていた小さな手が、少し強く俺の背中を掴んだ。
第四章 高校 ― 夢、別れ、そして一歩前へ
高校に進学した美桜は、“保育士になりたい”と言った。
「私ね、パパみたいに子どもを育てる人を支えたいんだ。
パパが一人で私を育てたみたいに」
不器用な俺を見て育ったのに、こんな言葉を言うなんて。
胸が熱くなり、少し涙が滲んだ。
だが高校生活は順風満帆とはいかなかった。
進路や勉強で何度も壁にぶつかり、部活の仲間と喧嘩し、
時には俺にまで当たった。
「パパは何もわかってない!」
「俺なりに考えてるんだけどなぁ……」
「その“なり”がダサいんだよ!」
痛烈だった。
でも俺は耐えた。
反抗できるのは、信頼してるからだ。
そして迎えた高校三年の冬。
母の命日。
美桜は墓前に立ち、小さくつぶやいた。
「ママ、私ね、保育の学校に行くよ。
パパみたいに泣き虫だけど、ちゃんと頑張るから」
俺は横で鼻をすすった。
「泣き虫は余計だろ……」
「だって泣いてるじゃん」
娘に指摘され、俺は墓前で笑った。
最終章 卒業式 ― 桜の下で届いた手紙
晴れた春の日。
美桜は袴姿で卒業式に立った。
俺が作った三つ編みは、あの日より格段にうまくなっていた。
式の後、人込みの中で美桜が手紙を差し出した。
「パパへ。高校卒業の記念に……読んでほしい」
震える手で手紙を開く。
―――――――――
パパへ
ママがいなくなってから、パパは一人で毎日頑張ってくれたね。
三つ編みはボサボサだったし、お弁当は茶色だったし、
洗濯物はたまに色移りしてたけど……全部大好きだったよ。
私が失恋した日、泣いてる私のとなりで、
パパも泣きそうに笑ってくれたの、覚えてる?
誰より不器用なのに、
誰より私のことを大切にしてくれた。
パパは私の“家族の形そのもの”です。
これから私は進学して家を少し離れるけど、
ずっとパパの娘でいるからね。
美桜より
―――――――――
涙が落ちて、文字が少し滲んだ。
肩を震わせる俺を、美桜が小さな声で言う。
「……泣き虫」
「誰のせいだよ……」
桜吹雪の中で、美桜は俺の腕に絡みつくように寄り添った。
「パパ、これからもよろしくね。
世界でいちばん、大好きだよ」
その瞬間、十数年間の苦労も寂しさも不安も、全部報われた気がした。
エピローグ ― 積み重ねた日々が、家族になる
父子家庭は簡単じゃなかった。
それでも、美桜が笑うたび、泣くたび、そばにいられたことが幸せだった。
家族とは血でも形でもない。
一緒に積み重ねた思い出だ。
その全部が、俺たち親子を作ってきた。
今日も美桜の部屋から、進学の準備でガサガサと荷物を整える音が聞こえる。
その音だけで胸が熱くなる。
「パパ!シャンプー詰め替えて!」
「まだ甘えるか……」
「当然でしょ。パパだもん!」
俺は立ち上がりながら、ふと笑った。
きっとこの先も、父として、母として、美桜と歩いていくのだ。
――桜が舞うたびに、あの日の小さな手を思い出しながら。


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